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 神社・仏閣
 根本寺 (こんぽんじ)
 妙宣寺 (みょうせんじ)
日蓮聖人と最もゆかりの深い寺。当時は死人の捨て場所とされていたこの塚原の三昧堂に配所されていた聖人は、他宗の僧侶達と「塚原問答」を行いました。
順徳上皇に供奉した北面の武士遠藤為盛が上皇崩御後、日蓮聖人に帰依して建立した寺。境内には日光東照宮の塔を模した県内唯一の五重塔や日野資朝の墓がある。
   
 国分寺 (こくぶんじ)  蓮華峰寺 (れんげぶじ)
仁王門を入ると参道の奥に瑠璃堂があります。堂脇の手水鉢の台は、かつての佐渡国分寺七重塔の礎石を半分に割りとったもの、堂は江戸時代初期の寛文6年(1666年)に建立されたものです。
弘法大師が平安時代初め創建。約600年前の室町時代前期の建築といわれる金堂は、慶長14年(西暦1609年)建立の弘法堂とともに国の重要文化財に指定される。
   
 清水寺 (せいすいじ)  慶宮寺八祖堂 (けいくうじ)
賢応法師が佐渡へ布教に来たとき、京都の清水寺を参詣できない者のために建立した寺。京都の「清水の舞台」に似た救世殿がある。
順徳上皇の皇女慶子女王とかかわりがあったといわれる寺。見所は八祖堂(県有形)。内陣に八角の回転厨子があり、金輪仏頂・大日如来・八祖大師と、居ながらにしてすべて参拝できるという珍しい堂。
   
 真野御陵 (まのごりょう)  長谷寺 (ちょうこくじ)
正式には火葬塚。承久の変で流された順徳上皇は、ついに都へ帰ることなく島で果て、火葬されたのち従者に抱かれてさみしく都に帰ってゆかれました。近くの真野宮は、その順徳上皇をまつった神社です。
奈良の長谷寺を模して建立されたといわれる真言宗の古刹.。祖師堂には国の重要文化財に指定されている十一面観音像が安置されています。5月上旬には見事なボタンが咲くことでも有名です。
   
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 佐渡金山
 佐渡金山の歴史
 徳川家康が政権を握ると同時に、佐渡を天領とし、慶長8年(1603年)金銀山の経営に才のあった大久保長安を奉行に、大々的な開発に乗り出すことになった。そして慶長から元和・寛永にかけては、年間銀1万5000貫目(5万6250kg)、金100貫目(375kg)という記録があるが、実際にはもっと多く、おそらく当時世界一の産出量だったろうと言われている。
以来佐渡金山は徳川幕府の財政を支えることになるのだが、次第に産出量も減り、抗道400kmといわれる金山の開発努力がされればされるほど、過酷な労働条件が幾多の哀話を生んでもいった。とりわけ佐渡金山の一番の難事は坑内の地下水だった。このとめどなく湧き出す水を汲み上げる仕事をしたのが水替え人足で労働力の不足からついには罪のない江戸や大阪の無宿人が狩り出された。18世紀中頃から明治維新まで1,800人ほどといわれ、そのほとんどが山から出ることなく石粉の毒で短い生涯を終えていったという。この金山も明治維新後は当然国に移管され、近代鉱山をめざして莫大な投資をしたにもかかわらず業績があがらず、明治29年(1896年)三菱合資会社に173万円で払い下げられた。以来採掘が続けられてきたが、平成元年(1989年)ついに閉山され、江戸初期から400年の歴史に幕を下ろした。
 道遊の割戸
佐渡金山発見の端緒となった露天掘りの跡。掘りつくされて、ついに山頂から麓にかけて断ち割られてしまったもの。金にとりつかれた人間の執念を思わせる奇観である。
  佐渡金山(ゴールデン佐渡)
当時の採掘の様子が見られる「宗太夫抗」・「道遊坑コース」や「金山展示資料館」のほか、金鉱の発見を祝う伝統行事「やわらぎ」の復元や「南沢疎水坑」の模擬体験坑道・金塊と佐渡小判の展示など興味深い。
年中無休
<入館料>
大人700  中・高校生600円  小学生400円
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 配流された著名人
養老6年(722)万葉歌人の穂積朝臣老が佐渡に流されて以来、中世までは流人のほとんどが政争に敗れた人たちでした。その数は76人といわれ、彼らが持ち込んだ京都の文化が佐渡へ伝えられ、国中平野を中心に根付きました。
 その後江戸時代には庶民が主に送られてきますが、延宝2年(1674)102人が送られてきたのを最後に、佐渡へ流される人はほとんどいなくなりました。これは佐渡が豊かで、遠流の意味がなくなったためと判断されます。
日蓮上人 「立正安国論」が鎌倉幕府の怒りに触れ、文永8年(1271年)に配流。在島2年5ヶ月で赦免、鎌倉に帰京。塚原の三昧堂(根本寺)で「開目抄」を著して自らの立場を明らかにし、一谷入道邸(妙照寺)に移されてからは「観心本尊抄」を著して、日蓮の主義・思想を結実させた。
順徳上皇 承久の変(1221年)で鎌倉幕府の転覆に失敗し、24歳の若さで配流、在島22年。ついに帰京の願いはかなわず、46歳の時に絶食して果てたと伝えられている。順徳上皇を火葬にした真野御陵や上皇の仮宮だった黒木御所跡などの遺跡、伝説なども数多く残る。
世阿弥 「花伝書」で知られる能楽の大成者。将軍・足利義政のゆえなき怒りで配流されたのは、永亨6年(1434年)世阿弥が72歳の時。許されて都へ帰ったかどうかは不明。在島中に、娘婿の禅竹に贈った手紙(奈良宝山寺)の碑が、佐渡博物館に建っている。
小倉実起 自分の娘が第一皇子をもうけているのに、皇位継承させようとしない天皇に抗議したため、天和元年(1681年)に父子3人で配流になった。実起らは流人ではあったが、生活は束縛されなかったので、奉行所の役人や山師、町人などに、漢詩や歌を教えたりしたという。相川鹿伏の観音寺には、小倉大納言実起・長男宰相公蓮の墓があり、実起の持仏といわれる「銅造観音菩薩像」がある。
日野資朝 鎌倉末期の延臣。権大納言俊光の子。文章博士・参議・権中納言などを歴任。後醍醐天皇に抜擢され、北条氏討滅の企てに加わったが、正中1年(1324年)発覚。佐渡に配流、殺された。阿新丸(くまわかまる)はその子。
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 佐渡の生んだ著名人
人口10万人程度の佐渡は、これまで多くの著名人を輩出しています。この背景には中世以来流人により京都の文化が常に持ち込まれていたこと、江戸時代に金山の開発で全国より優秀な鉱山技術者や鉱山経営に長けた山師、金山の運営に必要な資材を調達し運び込む優秀な海運業者や町人が佐渡に集まったこと、常に最新の情報が江戸からもたらされ、それを学ぶ機会が多かったことなどが影響していると思われます。
柴田収蔵 文政3年(1820)、小木の宿根木で生まれました。20歳の時、村の船で大坂に行き金毘羅に詣でますが、その時大坂の船中で蘭医に会い、洋学に興味を持ちます。やがて奉行所の絵師石井夏海の勧めで高田藩の儒者中根半仙に付いて修行をし、天保14年(1843)には蘭医伊東玄朴について蘭医医学を学び、やがて世界地図に興味を持ちます。その後、嘉永元年(1848)「新訂坤輿略全図」と呼ばれる卵形式の世界地図を表しました。安政元年には「蝦夷接壌図」を完成させます。安政3年(1856)江戸で天文方手代となり、安政6年(1859)40歳で江戸に没しました。
益田孝 嘉永元年(1848)佐渡奉行所の役人の長男として相川に生まれ、父が函館に転勤した7歳まで相川で育ちました。函館では、役所付きの通訳から英語の手ほどきを受け、2年後に江戸に出てアメリカ公使ハリスの家に雇われ、本格的な英語を学びます。15歳の時、父の隋員として渡欧、その時、英国の軍隊に入りさらに語学を磨きます。帰国後、初めは自ら外国相手の輸出業を営み、2年間外国商館に勤め、その後、大蔵省の役人となりますが、28歳で三井物産社を興し社長となります。この年、英字新聞を自ら翻訳し記事とした日本経済新聞の前身「中外物価新報」を創刊します。さらに三池炭鉱を吸収、台湾製糖を設立するなど三井財閥形成の中心となりました。益田孝は、日本資本主義成立期の中心的な人物の1人でした。
生田秀 安政3年(1856)真野新町の医者の家に生まれ、佐渡で漢学を学び、後に東京へ出て、同郷の司馬凌海の塾「春風社」に入りドイツ語を学びます。明治20年(1887)大坂の吹田で大坂ビール株式会社(現在の朝日ビール)が創設されると、翌年技師として入社しました。入社すると直ちにドイツへ留学し、ビール醸造を学びます。明治22年帰国すると、ビールの醸造に専念し、明治25年(1892)最初のアサヒビールを出荷し、その後も業績を上げて支配人となりました。明治39年(1906)日本ビール、大坂ビール、札幌ビールの合併に奔走し、合併が達成された年に50歳で亡くなりました。
北一輝 明治16年(1883)両津で酒造業を営む北家の長男として生まれ、少年のころ若林(わかばやし)玄益(げんえき)に漢文を学びます。明治30年(1897)佐渡中学に入学、初めは飛び進級するほどの成績でしたが、次第に文芸で社会問題に関心を持つようになり、眼病の悪化もあって明治33年佐渡中学を退学しました。明治36年(1903)「佐渡新聞」に「国民対皇室の歴史的観察」を掲載、不敬との理由で掲載中止となりました。明治38年(1905)上京して、早稲田大学の聴講生となり、図書館に通って純正社会主義論の完成を目指し、翌明治39年(1906)に「国体論及び純正社会主義」を自費出版します。しかしこの本も発売禁止となりました。その後、中国革命同盟会に参加、明治44年(19119中国で辛亥革命が起きると中国に渡って活動しました。大正2年(1913)帰国して「中国革命外史」を著し、大正8年(1919)には「日本改造法案大網」を中国で書き上げました。この年の末に帰国し右翼運動に参加、陸軍の青年将校に影響を及ぼすようになります。二・二六事件の際には行動には参加しませんでしたが、背後の首謀者として逮捕され、昭和12年(1937)処刑されました。
斉藤兼吉 明治28年(1895)、相川の北片辺で生まれ、両親は相川の小六町(ころくまち)で旅館を経営していました。明治43年(1910)佐渡中学に入学し、相川から片道12キロメートルを歩いて通学していました。大正5年の極東大会(現アジア大会)では水泳3種目のほか、円盤投げ、やり投げ、5種競技で優勝し「水陸両棲動物」などと報道されました。大正9年(1920)アントワープの第7回オリンピックに日本人初の水泳選手として出場し400メートル自由形で準決勝まで進みました。この競技で日本の水泳技術の遅れを痛感し、先進的なクロール泳法を学び、日本に普及させ、水泳日本の基礎を築きました。のちに欧州と英国に留学し、新潟大学、金沢大学などで教授を務めました。
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佐渡は、かつて農家の人たちが畑仕事で謡曲を口ずさんだほど能の盛んなところ。能がこれほど庶民の生活の中に浸透している土地柄は、全国でも珍しい。
現在全島に30以上の能舞台があるが(かつては200以上といわれる)その大部分は、神社の拝殿と兼ねたものや付属したものであり、由緒を誇る「国仲四所の御能場」といわれたものも、大膳神社(竹田)・加茂神社(栗野江)・牛尾神社(潟上)・若一王子神社(中原)とすべて神社。ここで毎年決められた日に能を奉納してきたというから、佐渡の能が神事能として始まり、庶民の手で村々の鎮守の祭りの場へと広まっていったように思われる。
本間家能舞台
本間家は現在18代目で、今も佐渡宝生流の家元。吾潟の本間家能舞台では、毎年7月の最終日曜に定例能が催されている。このほか薪能が毎年6月第一土・日曜〜第三土・日曜に各地で数回開催されるなど演能は今も盛んです。
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 鬼太鼓
佐渡にしかない珍しい古典芸能で、島内各地にそれぞれ独自の様式で伝承されているところが面白い。唐散楽に似た獅子舞の一種で、勇壮な太鼓にあわせて鬼が狂ったように舞うのでこの名があり、佐渡では「オンデコ」と呼ぶ。
島内の多くの祭礼で舞われ、悪魔を払い豊年を祈念する神事芸能だ。
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 佐渡おけさ
おけさの元唄は、九州のハイヤ節という港の酒もり唄といわれ、船乗りの手で佐渡の小木地区、越後の出雲崎・寺泊などに上陸して唄われている中に「おけさ節」となったもの。従って越後にもおけさは沢山ある。小木地方に入ったハイヤ節はハンヤと呼ばれ、座敷唄から盆踊唄化し、金山の選鉱場で唄われるようになってから「おけさ」と呼ばれた。大正13年(1924年)に立浪会の村田文三が中心となって、正調佐渡おけさとして世に出してから一躍有名になった。京調を帯びた節と洗練された優雅な踊りは、いまや日本の代表的民謡として誰知らぬものもない。
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 無名異焼
「無名異」とは、佐渡金鉱の石英岩欠裂箇所に沈殿する二酸化鉄のことで、古来は止血薬や中風の薬として用いられたという。この無名異と沢根産粘土による陶土で焼かれた陶器が「無名異焼」。製品は非常に硬く、叩くと澄んだ音がし、使い込むほど光沢を増していく。現在、相川地区には12の窯元と人間国宝「伊藤赤水」の窯元もあり、無名異焼の里として広くしらている。

 
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 版画
佐渡は、版画制作活動がとても盛んな島。人口8万に満たない島になんと千人を越す版画制作者がおり、有名公募展にも佐渡出身の版画アーチストが名を連ねています。このような版画の隆盛は「佐渡を日本一の版画の島に」という理想を掲げ、版画村運動を進めた故高橋信一によるものといえます。
佐渡の版画は、特殊な機械や道具を使わず、手軽に制作できる木版画が主流です。
  佐渡版画村美術館
旧相川裁判所の建物(町文化財)を利用して昭和59年に開館。高橋氏の作品はもとより、全国のアマチュア版画作家、佐渡版画村会員の作品140点が常設展示されています。
入館料 : 400円
版画教室 : 1人 1,500円
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